実体験へのこだわりを抜けて

 

身体文化(スポーツ)の本質は電子メディアの本質と「自主性」「コミュニュケーションに基づく」という点で同じだと思います。  

ダンサーのみならず舞踊研究者は社会のデジタル化に対して違和感を持っているケースが少なくありません。しかし我々が直面している社会においては電子メイルのようなテクストデータのみならず、バイオメカニクスとデータマイニングに基づく身体知に関する学習データ、モーションキャプチャされた振り付けデータ、ノーテーションによって符号化された振り付けを相互におくりあい、仮想現実感(VR)まで含めた多様なリアリティによるユーザー同志の相互伝達が可能な技術基盤が確立しています。また人工知能の発達はエクスパート・システムという高度に発達熟練した知識の伝達・再現の可能性も生み出しました。これらの成果はスポーツ選手などの知識にも適応されています。従ってトップクラスのバレリーナやダンサーのもつ技や巧みもオンラインで伝達することを考えられる時代になっています。(この事はダンスを学ぶものが身体知・暗黙知に関するものでも自分が学んでいる事を意識をして学ぶことの必要性、その伝達が技術的に可能であるという認識の必要性を提起しています。)つまり21世紀のメディアは1対多通信でデータを配送する以上のものなのです。 舞踊家が自ら日常的に生活・仕事をする場にある<実体験>からもたらされる1次情報・ライブ感覚といった事柄に「こだわり」を持つがために現在世間一般のデジタル社会に関する思惑に対して違和感を持つのは現代への時代錯誤というより、その職業感覚から導かれた素直な素朴な感情ということが出来ます。しかし現実の社会においては<実体験>が人間関係・ライブ中継などにおいて稀薄になり、一方でネット上でのディスカッショングループでは思いもよらない出会いをもたらすといったように複雑な変容の仕方が為されてきています。ダンサーが日常から<実体験>に触れる仕事だからこそ、それに対する「こだわり」ではなく、そこから<新しいメディアの形態><パフォーマンスの形態><エクスサイズの形態>などを他領域の人々よりいち早く導けるとも考えられるのではないでしょうか?

近年ウィリアム・フォーサイスとZKMによる「インプロヴィゼーション・テクノロジーズ」が発表されたり、マース・カニングハムによる「ライフ・フォームズ」が発表されましたが、このMLが、ユーザーから開発者、教師から学生、にいたるまでいろいろな意味で幅の広い人々に考えるきっかけを与えるものであればなによりかと思っています。(コレオグラフィーはCD-ROMやアプリケーションからオンラインのデータベースへシフトしてきている様です。)同時にジャンルを超えた多くのダンサーたちに対して、デジタルとダンスの接点について広く自覚を与えていくことが出来ればなによりかと感じています。 近未来には街中・学校内を問わず24時間マルチメディア環境を兼ね備え、テレプレゼンスで相互接続が行われ、仮想現実感(VR)にみられるような多様なリアリティを伝達することが可能な体育館・スタジオも必ず誕生するはずです。そのような場でもちいられる教授法や使われる装置も生まれてくるでしょう。お互いに議論を重ね、刺激をしあうことで、<新しいメディアの形>、からだを動かす装置・環境を生み出すことが出来たらと思います。さらには新しい社会に適応した身体づくりのための体操・ダンスも<プログラム>され普及をするはずです。(エアロビクスはアメリカ海兵隊のトレーニングの為に生み出されたそうです。)

 

 

「遊び」から始まるテクノロジー

 

 

情報化等といった社会変動の中で、私個人の夢としては身体・運動は個人のものとしてあってほしいと思っています。

ダンサーと著作権

 

 

ダンサーとメディア