学融合時代の「体育」の姿

 

近年、小説が読まれなくなった、時代を共有することが出来なくなった、前の世代と記憶の 共有ができなくなったといいます。そのためナショナリズムを喚起する「国民の歴史」や 「国民の物語」が<物語>として読まれるようになったとも言われます。規律=訓練の基盤 となる体育がナショナリズムに取り込まれた過去を繰り返さないようにする必要があるように 感じます。

その一方で下に書くようにこれまでの積み重ねの結果として教育現場から体育が 必要とされなくなった(必修でなくなった)という現実があります。今現在は非常に考えなくては ならない時期です。「第二次世界大戦による敗戦後の記憶」を戦後の論調の振り戻しで ナショナリズムとして語るのではなく、過去の因習には捕われない全く新しいグローバリズムの 中に生きる人類の為の生き方をつくるために用いることが重要です。1979年にジル・ デゥルーズ、フェリックス・ガタリが当時は絶頂だったテレビとプリントメディアの中で 「リゾーム」(根茎)という概念や「ノマド」(遊牧民)という概念を語ったとき、電子 メディアが20年後ここまで世界を覆うとは思っていなかったと思います。(テレビは当初 1:1のコミュニュケーションの為に開発され、教育用として期待されていました。)オリン ピック・ムーブメントは19世紀末の国民化をしていく社会の中のインター・ナショナリズムを <物語>として生まれてきました。ナショナリズム、インターナショナリズムとは異なった形で 新しい身体の知を産み出すことが大きな意義を持ちます。グローバルな人類の為の<物語>を 0から産み出すことが意義を持ちます。プリントメディアや映像メディアではないインタラク ティブな電子メディア・サイバースペース上でのスポーツは表現にしろ形態にしろ20世紀までの 伝統を大きく切り替えるものになると思います。

現在の一般的な社会人にとってスポーツとは「プロになれないからむかない」「スポーツクラブに あるようなリフレッシュ」という意味合いが強いです。学校体育の中でも、「わかる人にはわかる」、 「わかる人同志で話す」、「楽しければいい」といった風潮が強くあり、本当に1つのクラスに いる様々な個性を持っている人たちが個人個人の身体感覚・能力を見つめながら自分自身を育んだり、 自らの運動した体験をディスカッションしたり話し合ったりすることは少ないです。身体文化 (スポーツ)という概念を用いるのであれば、本来であれば各々が自らの<身体の知>を論じあう 土壌が必要であり、同時にそれを通じて社会や広い意味での人間性が深まるということが必要です。 大学では体育が必修でなくなりました。(これは日本の高校以上の教育機関において体育を学ばなくても生きていけることを指し示しています。現在の体育という領域への見識を表し、いずれはその結果を享受することになります。)スポーツという概念の起源や本質が「遊び」(ホイジンガ・カイヨワ など)、「憂さ晴らし」(disports)、「余暇」(エリアス「スポーツと文明化」)であるのならば、 現在我々が生活する社会はその概念を再考する必要があるのではないかと思います。(さらに スポーツは非西欧にも存在しますが、西欧文明では日照時間との関連で生活の必需品でした。 そういう背景があり「体育」(トゥルネン)を産み出したヨーロッパと、江戸までの伝統スポーツが ある中に体育を輸入した日本では大きな差があります)つまりイギリスではチェスがスポーツで あるといいます。今後、更に全世界的な躍進が見込まれる大人から子供まで楽しむヴィデオゲームやネットワークゲームなどは、将来におけるスポーツといえるのでしょうか?(脚注1)

私たちは自然な欲求として「健やかで美しい心とからだ」を求めています。しかし必ずしもアカデミックな研究成果を探求しても、また体育学の中のみをみていても一般の社会に還元されません。情報環境、都市環境、そして生活環境を考える上で「余暇」ないしはリラクゼーションはかかせない事柄です。もちろん「余暇」としてのスポーツを考えるのであれば、エクスサイズや種目そのものに対する研究は必要です。しかしそれのみならず、「余暇」や「遊び」という概念の本質をとらえることで、具体的なエクスサイズのみならずその周辺領域に存在する関係者との対話は必要なはずです。また専門家に対する一般的な人々の直感的な不満・問題提起にも問題発見/解決を行っていくべきです。さらに情報環境、生活環境や都市環境の設計/プラニングする立場の人々と手を取りあって社会における「こころ」と「からだ」の在り方を論じる事があるべきです。そしてそのような作業を通じて隣接領域と手を取り合って「遊び」「憂さ晴らし」「余暇」といった各概念をエスキースしてみたとき「スポーツ」という概念は形態としても意味合いも大きく揺らぐことになるでしょう。ダンスを素材にとることでこのような事も考えることができたらと思います。

以下に現時点で考えに浮かぶことを整理します。

 ・「遊び」に見られる対話の先駆け

時代を代表する技術は世界の世界観に影響を与えるといいます。16世紀に起きた産業革命以後、それまでの人間の生活様式を変えてしまうほどの影響を「蒸気機関」、「機械化の結果生まれた機械達」や「時計」が産み出しそれまでの人間の世界観をつくりかえてしまいました。今現在はデジタル技術やコンピュータ、人々の意識でのつながりを変える「情報化」が新しい世界観をつくっています。つまり情報系とその中での運動や身体を考える必要がでてきています。「余暇」を考える上で重要な医療・福祉、サイバーカルチャーやデザイン・建築などで有名なデンマークでは体操を中心とした身体文化とエコロジー・風力発電の設置が密接な関連をもっています。新しいオルタナティブな文化の中で新しい身体観や<身体の知>を育む事が大きな意味を持ちます。

 

身体教育・身体文化