舞踊教育が孕む可能性

 

日本ではDance Studies(舞踊学)が確立していないといいます。日本でダンスをいろいろな 角度から専門的に勉強できる場は、ダンスを体育・スポーツの一貫として考える事から 筑波大学、お茶の水女子大学、各体育大学において開かれています。一方アメリカやイギリスの Dance Studiesの学科をみると、身体文化(スポーツ)の一貫としてのダンス、文化論としてみる ダンス、アートとして考えるダンス、ムーブメントアナライシス(動作分析)、アプリケーション の開発にいたるまで広く総合的な領域・立場がつながりあう事で大学の学部(研究教育機関)や 研究機関が編成されています。そこでオンラインで幅広い人々がつながりあうことで、あらゆる 立場からダンスについて考えてみる場としてこの場を創り社会に向けて公開・提供することに しました。研究機関や大学とまではいきませんが、この問題の問題解決への一方法ととして この場を社会に向けて提起/提案することが出来ればと考えました。

日本、アメリカを問わず舞踊教育は問題発見・解決型の教育と密接な関連があります。19世紀は 記憶偏重・規律=訓練型の産業革命における工場をモデルにした「教育の工場」ともいうべき 学校を信じていた時代がありました。20世紀になりそれまでの「教育の工場」から新しい問題 発見型の教育を生み出そうとする試みがアメリカではじまりました。舞踊教育は問題発見解決型の教育・自主性を重んじる教育から恵みをうけ発達をしてきました。

⇒■問題発見解決型・自主性を重んじる教育手法

しかし、現在教育の中でダンスを位置付ける場合、「体育」という領域で取り扱われる事が多いです。 (ダンスに関する幾つかの主要な論文は体育学会にて発表されています。)現実問題として 学校教育の中で身体を動かすことは「体育」が中心になります。(その中でダンスは芸術 スポーツとして位置付けられます)現在、社会の「少子化」や「核家族化」が反映される 教育現場では、身体を利用したコミュニュケーションにスポットライトが当てられ「身体 コミュニュケーション」といったキーワードが取り上げられる事が多いです。これまで 「体育」という領域で扱われてきた要素が少しづつ広い領域へ脱領域化される必要があるのでは ないか、またその傾向が出てきたのではないかということを感じています。この事はこれまで 論じられてきた「日本にはDance Studiesがない」「体育の中にある体操・ダンス」といった 言説を再検証しさらには全く新しい身体像・ダンス/体操のあり方を考えるきっかけになるのでは ないでしょうか?さらには「体育」という領域と絡めて戦争の記憶と結びつけやすい身体像 (例えば学校のグランドは軍事教練の為につくられ、運動会は閲兵式の為につくられたという ような言説)も21世紀に向けて脱構築する事が可能ではないでしょうか?

 

学融合時代の「体育」の姿

身体教育・身体文化

現在今なおダンサーはダンスさえしていれば良いという風潮が強いです。自ら踊るのみではなく芸術的・科学的な方法論を用いて社会に自らの論を提起していく「舞踊家」というべき存在が大切なのではないかと思います。20世紀の初頭、ルドルフ・ラバンとクルト・ヨースが専心したことは「ダンサーのための学校を作ること」「ダンスの記録を残すこと(ラバン・ノーテーションにつながります)」でした。20世紀も終り、第二次世界大戦後「舞踊学」が生み出され、大学には舞踊学科が誕生するに至りました。その伝統の上に今現在があると考えられます。研究者・研究教育者としての顔も持つダンサーも少なくありません。しかしアカデミックな場所がやっと誕生したにもかかわらず舞踊家そのものがその場・方法をうまく使いこなせていないことも事実です。最初はダンサーだったけれど、様々な経緯から科学にも関心を持った、大学の舞踊学科で学んだ、など多くの異なった経緯を持つ人々がいるのが21世紀の地平線です。過去を単に批判することなく新しいよりよい成果・方法論・環境を生み出すことが必要となっています。