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肉体と神話
「レ・ヴィエルジュ」
ラ・ダンス・コントラステ
第10回アトリエ公演
Photo: 池上直哉
「ダ・ビンチ・コード」のような物語が評価されるこの頃だが、キリスト教の神話世界を描いた作品が上演された。イブ(依田久美子)が現れ、神(安藤雅考)とのやりとりがはじまる。やがてガブリル(上島里江)というキリスト教神学の世界の登場人物が現れ、キリスト生誕のエピソードを描き出す。
キリストが実は人間であり、人が作り出したものであるという主題を伝えることが、この舞台では重要だ。言葉のないダンスのジャンルである「舞踊劇」でそれを伝えるのは、普通、かなりの労苦を強いられる。だが、特に神とガブリエル、救世主(中川賢)とマリア(木下佳子)が踊るシーンに一種の緊張感を生むことで、大事な主題を伝えられていた。
上半身裸で鍛えられた肉体を走らせる中川の演技には味わいがある。このような巧みさは、バレエ出身の男性舞踊手にはなかなか出せないものだ。男の荒々しい肉体は女の腕に抱擁され、十字架のように浮き上がる。圧巻なのは熱く連なり合う肉体が場面を描き出したラストシーンだ。彼らの振付のムーブメントは常に正統派である。激しい修練の上、強固となった肉体の構成美で見せようとする。かといってバレエ・テクニックにはそれほどこだわっていない。踊り手たちの肉体の深遠から立ち上がる像が舞台いっぱいに濃密に広がっていく。だが、物足りなさを述べるとすると、より鋭く文明や宗教世界の本質に迫り、人間が神を演じているという事実を踊り手の肉体を通じて抉り出すような側面が欲しいと思った。
この作品は、キミホ・ハルバートや現代舞踊の飯塚真穂、矢作聡子と同様に、’90年代を通過してきた佐藤圭(構成・演出・振付)によるものである。これは、ファインアート寄りの上記三名の女性作家の作品に比べ、泥臭いエネルギッシュな空気を感じる。だが戦後の厚木凡人や高橋彪と比べてみるとまだそのベクトルは弱く、力の表出は外面ではなく内面を見ているような感じがする。バレエの世界にも、アンダーグラウンドから実力のある振付家が出てきて欲しいものだ。戦後の振付家である高橋による戦後のバレエ・デゥ・ブルゥの軌跡は今でも語り継がれることが多い。社会の底辺から突き上げていくようなエネルギーとオリジナリティを持つ振付家の登場を願ってやまない。
(2006年5月23日 東京芸術劇場 小ホール) 吉田悠樹彦
舞踊学者。音楽舞踊新聞(音楽新聞社)、ArtsCure(DanceProjectSequence)に定期連載を持つ。他にCutIn (die pratze)などにも舞踊評を執筆。舞踊学会、World Dance Allianceアジア・環太平洋、Association for Dance and Performance Telematics:ADaPT(日本支部主任調査員・プロジェクトリーダー)。一方でテッド・ ネルソンとProject Xanadu のアシスタントを2000年より勤める側面も。伝統的な舞 踊文化を視野に入れながら、ダンスとテクノロジー、サイボーグ文化などメディア・ テクノロジーとの接点も研究対象とする。2005、2006年度アルス・エレクトロニカ Digital Community部門国際アドバイザー。 http://yukihikoyoshida.hp.infoseek.co.jp/yoshidayukihiko.html
「レ・ヴィエルジュ」
ラ・ダンス・コントラステ
第10回アトリエ公演
Photo: 池上直哉
「ダ・ビンチ・コード」のような物語が評価されるこの頃だが、キリスト教の神話世界を描いた作品が上演された。イブ(依田久美子)が現れ、神(安藤雅考)とのやりとりがはじまる。やがてガブリル(上島里江)というキリスト教神学の世界の登場人物が現れ、キリスト生誕のエピソードを描き出す。
キリストが実は人間であり、人が作り出したものであるという主題を伝えることが、この舞台では重要だ。言葉のないダンスのジャンルである「舞踊劇」でそれを伝えるのは、普通、かなりの労苦を強いられる。だが、特に神とガブリエル、救世主(中川賢)とマリア(木下佳子)が踊るシーンに一種の緊張感を生むことで、大事な主題を伝えられていた。
上半身裸で鍛えられた肉体を走らせる中川の演技には味わいがある。このような巧みさは、バレエ出身の男性舞踊手にはなかなか出せないものだ。男の荒々しい肉体は女の腕に抱擁され、十字架のように浮き上がる。圧巻なのは熱く連なり合う肉体が場面を描き出したラストシーンだ。彼らの振付のムーブメントは常に正統派である。激しい修練の上、強固となった肉体の構成美で見せようとする。かといってバレエ・テクニックにはそれほどこだわっていない。踊り手たちの肉体の深遠から立ち上がる像が舞台いっぱいに濃密に広がっていく。だが、物足りなさを述べるとすると、より鋭く文明や宗教世界の本質に迫り、人間が神を演じているという事実を踊り手の肉体を通じて抉り出すような側面が欲しいと思った。
この作品は、キミホ・ハルバートや現代舞踊の飯塚真穂、矢作聡子と同様に、’90年代を通過してきた佐藤圭(構成・演出・振付)によるものである。これは、ファインアート寄りの上記三名の女性作家の作品に比べ、泥臭いエネルギッシュな空気を感じる。だが戦後の厚木凡人や高橋彪と比べてみるとまだそのベクトルは弱く、力の表出は外面ではなく内面を見ているような感じがする。バレエの世界にも、アンダーグラウンドから実力のある振付家が出てきて欲しいものだ。戦後の振付家である高橋による戦後のバレエ・デゥ・ブルゥの軌跡は今でも語り継がれることが多い。社会の底辺から突き上げていくようなエネルギーとオリジナリティを持つ振付家の登場を願ってやまない。
(2006年5月23日 東京芸術劇場 小ホール) 吉田悠樹彦
舞踊学者。音楽舞踊新聞(音楽新聞社)、ArtsCure(DanceProjectSequence)に定期連載を持つ。他にCutIn (die pratze)などにも舞踊評を執筆。舞踊学会、World Dance Allianceアジア・環太平洋、Association for Dance and Performance Telematics:ADaPT(日本支部主任調査員・プロジェクトリーダー)。一方でテッド・ ネルソンとProject Xanadu のアシスタントを2000年より勤める側面も。伝統的な舞 踊文化を視野に入れながら、ダンスとテクノロジー、サイボーグ文化などメディア・ テクノロジーとの接点も研究対象とする。2005、2006年度アルス・エレクトロニカ Digital Community部門国際アドバイザー。 http://yukihikoyoshida.hp.infoseek.co.jp/yoshidayukihiko.html