脚注

 

ダンサーに限定されることではありませんが「どんなダンサーでも自ら夢見たメディアを実装することができる、提案することができる」ということは重要な考え方です。テッド・ネルソンは「リテラリー・マシン」の中で電子メディアに関わってきた人たちを次の2つのタイプに分類しています。テクノロジーよりでテクノロジーの実現と短期的なビジョンしかみていない「ノイド」(Noids)と人文・社会系で常にアバウトなこと・考察しか述べない「フラッフィー」(Fluffies)といわれる人たちの2種類です。そこで20世紀に入ってから続いている人間にとって理想的なシステムを開発し・実装していく人々の流れを<文明のようなもの>と考えた上で今日の技術・明日の技術を持ってすべての人に理想的なシステムを2つの種類の人々のどちらにも陥ることなく見つけていく事が重要だと述べています。一方で実装をしながら、一方で人間にとって重要な未来のビジョンを提起していく生き方として<システムズ・ヒューマニスト>(Systems Humanist)という概念を提起しています。 これはダンサーやそれに関わる人々に関してもいうことができます。ステラークやマーク・ポーリンといったアーティスト、LifeFormsやフォーサイスの「インプロヴィゼーション・テクノロジーズ」といったアプリーション、そして現在のweb上のシステムに至るまで様々なビジョンが<文明>として常に開発されてきている中で<ダンスと人間><ダンスと環境><ダンスと電子メディア>について常に考え、単なる実装・単なる理念上の形態に終わることなく理想的なシステムを探求することが必要だと考えます。その中でダンスや人間に対する本質も描かれてくると思います。

また、「機械と人間の共生」、「ポスト・ゲノム」、「ポスト・クローニング」、「死と蘇生」といった問題系の中で舞踊家は<オリジナルの肉体><1度きりの人生>といった問題と向かいあう時代になってきています。舞踊手は自らが舞踊手であるという強い責任と倫理を考えて自らの肉体と向かい合い舞踊界・それを取り巻く諸領域に答を出していく必要があります。