東京全体をグローバルなスタジオとしてとらえると:

 

現在東京のダンス環境は様々な要素が混合している状態にあります。いわゆる「お教室制度」と「チケット制」、古い組織・方法を守っているカンパニーと新しいコンテンポラリーダンスのカンパニーが目指す組織、紙媒体によるフライヤーからオンライン上の情報まで無数の情報源など本当に新旧様々な要素が「融合」している状態にあります。
欧米から様々なダンスが輸入されその情報源に行くと(場合によっては相互に争い牽制しあうような)無数の日本人がいるという状況がある一方、70年代に日本が生み出した「世界に通じるダンス」である「舞踏」は「伝統の継承・稽古場の数・人の数」で危機に直面しつつあるという現状があります。またオリエンタリズムではないですが無数の外国人が「舞踏」を学びに日本に来日するという状況もあります。さらに海外の舞踊家が日本に来て得たヒントから成功をする例もあります。コンタクト・インプロヴィゼーションやアレクサンダー・テクニックは創始者が日本からヒントを得た部分もあります。
ダンスに限らずこの国の体質は未だに60年代から変わってなく、「自国の現代の作家達には関心が持たれない、海外の「教養」になった芸術には関心が持たれる」という現状があります。身近に書くのであれば、日本の現代美術は作家達が日本人にほとんど知られることなく、多くの人は百貨店などで催される「印象派」の展覧会にいくような現状があります。また海外で学んできたことを日本に輸入をする第一人者・紹介者になれば安心して保証されて権威として食べられるという風潮も強く、海外の著名な学者の間では数多い日本人の弟子たちの競争が激しいともいわれています。
一方で<大きく成功する人>の体質も変わらない状況にあります。日本で身の回りの人にずっと孤独に伝えていって、海外がその人を高く評価したときに、「日本では無名だが国外では評価されている」というキャッチコピーで大きく評価されるという体質があります。古くはストラヴィンスキーが評価をして成功した武満徹、YMOの成功、ヴィエンナーレで取り上げられてブームとなった森村泰昌などがその例と考えることができます。
荒川修作は磯崎新、ハイ・レッド・センター、若松美黄らと活動をしたホワイトハウスやネオ・ダダを通過したあと、「この国には概念がない」という着目点からニューヨークに渡り活動を開始します。海外でさほど評価されていなくても日本では「ニューヨークにいる」というキャッチコピーで日本で活動が出きる状況の中、10年間泣かず飛ばずの状況を歩ききってグッゲンハイムで勝利宣言ともいうべき展覧会を開催するにいたりました。荒川は「この国には概念がない、概念がないから都市がない、都市がないから文明がない。だから俺はニューヨークにいったんだ。福澤諭吉は借金をして慶応義塾をつくった」とかつて私の前で述べていました。彼の創作のスタンスは「自分で考えて自分で作る。俺はボードレールなんて1つも信じなかった」と述べています。その創作のスタンスが国外で評価をされ、アート・ブック「意味のメカニズム」を出版したあと、チョムスキーやリオタールから手紙をもらったといいます。(リオタールは死ぬ前に「荒川、おまえだけが希望だ」と行ったとも言います。)自ら概念を考え、それを世界に向けて問いかける事を荒川は示していると思います。
さらに東京という土壌の持つ特性として「権威主義」を上げる事ができると思います。(上の海外のエピソードにも通底していますが。)東京では情報紙が扱う名前には関心が持たれますが、身近なアーティストには関心を持たれるケースは少ないです。また人似たような作品でも、時代のキーワードを吸収した洗練された作品が評価されます。そして東京のアーティストは「本当に自分が日本の役に立つ」と信じきっているとさえ言われています。この傾向は関西と180度異なります。関西ではまだ無名時代からおもしろい人を最初に見つけた人がヒーローだといいます。そして人と似ている作品は評価されません。資本主義と創作におけるオリジナリティが全く別次元として並列することからシーン自体が東京より長く健全に存続するようになっているといえます。
我々が現在利用をしているチケット制はモダンダンスの若松美黄先生によって日本の舞踊界に持ち込まれました。当時の「お教室制度」は人の発表会まで見に行ってはいけないという厳しいものだったといいます。若松先生は当時アメリカですでにあったチケット制を見て、「自分がお金を払っているから良いのだ」ということで複数の教室に通い出しました。しかし当時の舞踊界はそれを当初認めず、無視をされたり、悪口を言われたり大変な目にあったといいます。(「土形巽は私がいたから舞踏ができたのだ」とおっしゃっています。) 現在、東京でダンスを学ぶ人は、無数のお教室・オープンクラスの情報を得ることが可能ですが、情報文化の悪い因習の影響の下にも身をおきやすいということが可能です。つまりクラスとクラスの評価の差やより人の知らないマニアックなクラスに関心が行くことで、「自らが舞踊家としてあること・自分にとってのダンスの意義」について関心が行くことが少なくなっています。創作においても過去にない新しい作品を作り出す事が難しくなっていると考えることができます。
東京でダンスを学ぶものは多くの情報・オープンクラスがある中で、「常に自分がどうありたいか・何を学びたいのか」ということをイメージする事が可能であれば、東京という小さな地域の交通の良さを生かして様々なオープンクラスを組み合わせることから自分を作り出す事が可能になっています。しかしその部分が忘れられると、「情報文化の悪い因習に捕らわれる・流される」状況が生まれます。
しかし良く活用すれば、外国人が学びに来たり、ヒントを得て成功することすらある日本のダンス環境をより良く活用し、国外に通用するダンスを生み出していくことも可能になります。
東京全体を大きな<グローバルなスタジオ>として考えるのであれば、下に上げるような事がシーンの活性化に必要なのではないでしょうか?

これらのことはダンスのみならず広くアート・ワールド全般で大切な事です。しかしシーンそのものを良くしていくためには必ず必要な事です。
プリントメディア内部で仕事をするのではなく、広く日本語という言語圏外に向けて電子メディアを用いて活動を展開する必要も出てきています。フル・ディジタルなメディア環境では批評家とダンス製作者、ダンスに関するメディア製作者の間の距離も少しづつ縮まるようになってきています。日々活動をしていく中で新しい時代のきっかけとなる<新しい考え方・生き方・人間>の発案が必要となっています。